ギャンブラーの時事放談

事件事故の真相を鋭く斬りこむ現場監督のブログです

大阪・桜宮高校の自殺事件・・・罪のないところに罰は存在しない

大阪・桜宮高校で起こった体罰が原因とされる自殺騒動、
 
報道を観ていて学校もテレビもコメンテーターも何か
 
言っていることに違和感を感じます。
 
躾とは家庭において親が子供に対して社会の中で人様に
 
迷惑をかけないよう教えたり、最低限の常識や生きていくうえで
 
不可欠な判断力を養っていくもの。
 
この過程において当然、間違ったことや悪いこと、
 
やってはいけないことを言葉だけでは伝えきれないことを
 
体に覚えさせる意味で一時痛い思いをさせることがあります。
 
この程度や限度を知らない親は、
 
こういった行為を「躾」と称して虐待をしているのです。
 
一度痛い思いをすれば大概はその言葉の強弱で、
 
それが間違ったことだと理解させられるから2度や3度の繰り返しはなくなります。
 
この躾のうまい下手も子供の育て方に大きな違いを生みます。
 
この躾の段階を継続しながら学校という教育の場に
 
子供たちの舞台は移ります。
 
躾すらまともにできていない子は、廻りに迷惑をかけても
 
それが悪いことだと認知できません。
 
教育の場において少しくらいの体罰が存在してあたり前です。
 
まともに躾のできない親に限って、
 
この体罰を大きな問題だとして学校に食ってかかります。
 
子供がなぜそのような罰を受けた理由を全く理解しないで
 
自分は悪くないという、いわゆるモンスターペアレンツです。
 
こういった馬鹿親子は一度ボコボコにされないと
 
わからないようですが、それをやる度胸のある教師もまたいません。
 
今回、自殺の原因となった「体罰」といわれる事象そのものに
 
そこ言葉を使う誤りを見出すことができます。
 
躾や教育において、人として正しいことに反して迷惑をかけたり
 
決まり事を守れない行為に「罰」を与えることは、社会に出ても同じことです。
 
ドフトエフスキーの小説に「罪と罰」という作品があります。
 
内容はともかく、「罪に対して罰がある」これは一つのきまりです。
 
躾や教育ではこのことを教え込む(教えるではなく)ために、
 
一つの効果的な手法として体罰(ビンタ程度のもの)を与える場面も予測されます。
 
綺麗事は言いません、
 
体罰は絶対だめだという奴は教育の修羅場を知らない人間です。
 
この体罰も使い方を誤るといけませんが、
 
「罰」という言葉がつく限りこの対象者はそれに相当する過ちを犯していることを
 
認識させなくてはなりません。
 
しかしこの行為は継続して行うものではありません。
 
桜宮高校の指導者の過ちは、領域を認識していなかったということです。
 
部活動は任意で行う活動であり、
 
顧問や監督、コーチは指導者という立場にあります。
 
その領域で行われることは、運動に限らず個々の長所を
 
伸ばして大きく成長させ結果を導くことだけです。
 
この行為において、「罰」に相対する行為は存在しません。
 
どのようにすればその子供の能力を引き出し、成長させる
 
事が出来るか、そのためにはどのような教え方が妥当なのか
 
指導者の考えることは本来これだけのはずです。
 
このことから部活動で「体罰」を与えること自体、指導者が
 
自分の仕事を自覚していない証拠です。
 
子供たちに限らず、個人個人でその持っている能力や資質は全く違います、
 
そのばらばらなものをまとめ上げるのも指導者の力量です。
 
「しごき」と「体罰」はまったくの別物です。
 
しごきには結果が必ずついてきます。
 
練習がうまくできない、試合に勝てない、みんなよりへたくそが
 
「罪」になるのでしょうか。
 
この顧問のしたことは、ただの暴行傷害です。
 
報道も学校も橋下市長もこの一番大事なポイントに気が付いていません。
 
罪のないところに罰は存在しません。